あとでやろうはばかやろう
明日やろうはばかやろう
というような言葉があるが、僕はこの言葉が嫌いだ。うつ病+ADHDのダブルパンチに日々苦戦している僕にとって、今日中に片付けられる用事や仕事の方が少ないのだ。
そんな自分に
「明日やろうは馬鹿野郎」だぞ、やれよ
なんて言った所で大抵はやる気が起きず出来ないか、自分の出来の悪さに悲観して自己嫌悪の渦に飲まれるか、謎のこだわりの強さが現れて一日の大半を費やす事になる。
一日に使える時間や体力は有限であり、僕の場合はそれが極端に少ないので全てをこなすなんて現時点では不可能なのである。
ぶっちゃけやらない
かと言って
「今日は無理そうだ、明日やろう」
なんて先延ばしにしてしまうと
明日こそやるぞ、明日こそは…とどんどん先延ばしになり、明日のはずのタスク完了がなぜか一週間先になる。
しかもその間はずっとそのタスクに囚われていて妙な罪悪感に付き纏われそれ以外のタスクに手をつける事も出来ずにいつか来る「明日」を待つ事になる。
(現に今僕は大量のレポートを抱えている)
結局は今やればいい
ではどうすれば良いのか。
大抵の場合、やる気はやろうと思ったとき、つまりタスク発生の瞬間がピークで、同じレベルのやる気が出る事は中々無い。
結局はやろうと思った瞬間に取り掛かるのが一番楽にタスクを始める事が出来るのだ。
そこで僕が推進するのが、
「やろうと思った瞬間、タスクをこなす予定を作る」
こと。すぐに取り掛かるのは難しくても、いつこなすかを決める事はできるし、精神的ハードルも低い。予定を作ることによってある意味で自分を拘束してしまえば、後は取り掛からざるを得ない。
ただ、これは「後でやろう」と思うだけでは意味が無い。いつもの単なる先延ばしと変わりなく、結局やらない。
正に「ばかやろう」な状態だ。
「これは何時になったらやる」
「ご飯を食べたら手を付ける」
「今やってるゲームの区切りがついたらやる」
など簡易的な約束を作ってしまうと割と動ける気がする。
家族や友達がいるなら宣言するともっと良い。
他人に宣言をする事で適度なプレッシャーを自分に与える事ができる。
宣言した事が達成できなければ単なる見栄っ張りに終わってしまうからだ。
あとでやろうはばかやろう
後回ししたとて結局やるのは自分であるのでいくらでも簡単で楽に取り組める方がその分できる事は増えたり余裕が生まれる。
「あとでやろうはばかやろう」はつまり、
思い立ったら即行動を面倒事にも適応してしまおうという主旨のスローガンである。
もっとも、それが難しいのだが。衝動的な行動をとりがちなのは困り物である。
ただでさえ生きづらい世の中、生きづらい自分なのだからうまくやっていきたいなぁ。
がんばろう。
そして頑張った分だけ報われるような頑張り方をして、その分自分を褒めてご褒美もあげよう。
やらねばならぬ事をやれるかというと無理だけどそれをやらずして他の事やれるかっていうと無理
タイトルに全てが詰まっています。
やらなければならない事ってありますよね。
でもできないんですよね。何故か。
「やらなきゃいけない事なんだからやればいいし、やるしか無いでしょ」
と、多くの方はそう感じて問題無く実行できるらしいです。
僕の場合、そう感じるまでは一緒なんですが行動ができない事がよくあります。不思議ですね。
その際の感覚というか自己認識はさながら盗人のそれです。
「ここにいるのに必要な対価は払ってい無いにのうのうと利益のみ享受している」
という自己認識の元生活するとどう自分を評価するか。
答えは「頑張ってようやく人並みかそれ以下」です。
頑張ってようやく普通の生活がこなせるかどうかなのでいつまで経っても自分に加点しなくなります。
まぁ実際加点されるようなことをしているわけでは無いので間違ってはいないのですが…
何が困るかというと全く満足感や達成感が得られなくなります。
何か一つ成し遂げてもそこに残るのは疲労感のみで、はい次の借金返済どうぞ。と言った感じ。
休憩は必要です。出来る人間も普通の人間も休憩しています。寝てるし食べてるし趣味や自分の為に時間を使います。
だからこそやるべき時頑張れる訳ですね。
それをわかっていながら何故僕は休めないのかという疑問も抱えていますが、
「寝てるし食べてるし自分の為に時間をかけている(或いはかけすぎている)のでこれ以上の休憩は必要が無い」
という思考が頭によぎってしまいます。お給料を前借りして仕事をサボっているよう感覚になります。
結果、何をしていても罪悪感を抱えながら動くはめになります。(本当に自分でも意味が分からないし愚かであると思います)
すると大変な事は余計に大変になるし楽しい事は全然楽しくもないのでただただ無為に時間を過ごす事に。つまりタイトル通り、
「やらねばならぬ事をやれるかというと無理だけどそれをやらずして他の事やれるかっていうと無理」
という恐ろしい永久機関が自分の中で回りはじめるわけであります。
結局のところ少しずつ成功とか感動を積み重ねていくしか無いしそれが間違いない方法なんですが、それを凌ぐスピードで失敗や苦悩が積み上がる訳で。
こう、消えた方が社会の為になるんじゃ無いかとか考えますね。社会の為に死ぬほど死が怖く無いわけでも社会に忠誠心があるわけでも無いので死にませんが、そうなる未来やそう考える人の事を考えると恐怖すると同時に申し訳なく思います。どうか許して下さい。そっとしておいてください。